京都大学工学部の学生であった河本は、アルバイトで勤務した八幡市の個人塾で、
指導生徒の中学受験・高校受験とも好成績を出し続けた。
1990年、河本は前年に体調を崩したこともあって、春から
京都市内の実家のすぐ近くの大手塾に就職することにし、この八幡市の個人塾を退職。
すると、その八幡市の個人塾は隣町の他塾に売却するとの発表があり、騒動に。
何人もの保護者が、河本の新就職先の大手塾にまで押しかけ
「河本を返してくれ」と大騒ぎ。
大手塾代表と保護者の交渉で、大手塾の八幡校という形態で、
かつ名称には「河本」を入れる、カリキュラムや教務は河本に一任という条件が、
当事者の河本抜きで、まとまった。
4月29日、背割堤で生徒向けのBBQを開催しその参加人数で
大手塾の正式GOサイン。5月18日夜10時、とある保護者宅で河本と
右腕であった
子安(故人河本教室講師現職中の2019没)が保護者の意向の最終確認。
保護者から
「生徒集めは私たちがやりますから、先生たちは授業に集中して下さい。」の声。
これで、河本は週二回しか八幡に来れないにもかかわらず開設が決定。
バブル終盤の好景気で、近くに空きテナントはなく、
保護者の斡旋で見つかった書道教室の和室を時間借りからのスタート。
ホワイトボードもコピー機も何もない十畳一間の和室に同時に3クラス約50人の生徒を入れて3人の先生が声を張り上げるというとんでもない状況からスタート。
(写真は当時の第1号のチラシ)
6月になって、これも保護者の斡旋でやっと見つけた、
三本橋の歯科医院の二階のぼろ部屋を突貫工事で大改修して、
6月下旬やっと塾らしい設備でスタート。
6月2日、サティ(現:コノミヤ)向かいの二区公会堂で開いた開塾説明会は、
新党旋風に乗って出馬した若手候補の演説会のように満席で、
すさまじい熱気に包まれた。こんな説明会最初で最後。
翌年には、手狭になって、地元の方の好意で、
その方の旦所の自宅横倉庫を改修して分室として使用できるようになったものの、
教室不足状態が続いた。
開塾後も3年近く、表に看板を掲げず営業していた。
それでもその当時の生徒増加状況は特筆もの。